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ラプラスの悪魔

 

私はロッキングチェアに座りながらコーヒーを飲んでいる。

傍らには少女がいて、空いたカップにまた、黒い雫を注いでくれる。

メイド服・・・エプロンドレスと言うのか?それともフレンチメイドでいいのだろうか。

私には彼女の服装を正確に定義できなかった。大した問題でもなかったのだが。

それを彼女が着ていることが一番大事だった。

しんしんと降る雪を眺めながら、焼き付いた思考を冷ます。

ふと、静かな風景に彼女の声が響く。

 

ねえ博士?

この世界で一番非可逆的なものって、何か知ってます?

 

またか。そう思った。

彼女は気まぐれに私に問いかけてくる。

最初は雇われの身で小賢しいことを聞いてくるものだと思っていた。

しかし、いつでも彼女の言葉は私の研究・思考に何かしらの影響を与えてくれる。

私達にとって脳は心臓のようなものだ。

さながら、彼女は私のジギタリスか。

 

さて、最も非可逆的なものとは、なんだろうか。

あくまで状態の変化が元には戻らない、そのことを示した言葉だろう。

それに度合いなど存在し得るのだろうか?

私は返答を探しあぐね、言葉を失ってしまった。

彼女はその黒い肌に浮かぶ、紅い唇を震わせて答えを告げる。

 

それはね、人間ですよ。

 

人間は感情を持ち、思考して次の瞬間へ絶えず進んでいく。

そして前の一瞬の状態には決して再び戻らない。

他の動物もそう?そうかもしれませんね。

でも、人間は文化を刻み、進化してきた。

サバンナの草原にいる野獣ならいざしれず、その人間を取り巻く環境もまた、人間の手によって変化していくのです。

だから、そんな人間たちを、私はたまらなく愛しく思ってしまう。

 

博士、あなたもそうですよ。

 

彼女は私に、愛の告白をしているわけではない。

そのことは、何も映っていない彼女の漆黒の瞳から見て取れた。

おそらくは私が数式に対して向ける、その視線と同じなのだろう。

純度100%の興味。

それは無意識の内に善意にも悪意にもなりうる、無垢なる凶器。

彼女が何を以って他の人間と自己を区別しているのかはわからない。

 

思考し、行動し、思考して。その試行の繰り返し。

そして、やがて人間は限りなく「ラプラスの悪魔」へと近づいていくのでしょう。

 

その瞬間の全ての原子と運動量を知ることができれば、全知の神とも呼べる・・・そのような内容だったか。

彼女がそのような古典的な概念を引き合いに出したことに驚きもしたが、なかなかに興味深いとも思えた。

確かに演算装置であったり、人間の能力は外部のアタッチメントによって向上しているとも言える。

それが限りなく一瞬でデータの演算と転送ができるようになれば?

少なくとも、そのような状態になれば考えられるのは、全ての存在が未来の予測を可能になるということだ。

それぞれが予測した未来を生きる、つまりそれは未来に管理された社会。

もしくは未来を予測した他者の行動によって未来の予測が成立しなくなる最悪の混沌だ。

そんな未来、あってはならない。私はそう彼女へ願うように言っていた。

 

無いとか、有るとか。そんなのは重要じゃないんです。

 

何かを誤魔化すかのように、彼女は笑う。

コーヒーは冷めてしまっていた。

 

季節が巡り、紅葉が落ち始めるころに私の研究が終わった。

最後まで理解できなかったその数式の一行を紐解き、私は理解した。

 

お疲れ様でした、博士。

 

彼女の柔らかい腕が、私の枯れた体に巻き付く。

やっと・・・と私は涙した。

達成感ではない。宇宙の真理そのものに、私は接続したのだ。

膨大な情報と、その始点から終点が一気に脳内ではじけていく。

その間にも溢れるかのように流れこみ・・・しかし、その全てを私は理解できる。

ああ、私は。

 

ラプラスの悪魔になったのだろう。

 

彼女は優しく私を抱きしめ続けている。

肉体的な繋がりでもなく、精神的な繋がりでもない。

私と彼女は一つになったのだ。

ただ、その表層に映るものが違うだけ。

ふわり、となにかから浮遊する感覚。

 

全知となった私という自我は消滅し、この世界の完全な第三者として存在し続けるのだろう。

きっと、それは楽しいことなのだろう。

彼女が笑う、その笑顔を見て、そう思えたのだから。

消えていく私は、それだけでいいのだ。

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